浄土の哲学

善導大師が「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」(『教行信証』信文類・引文)と言われる場合の「自身」とは、時空を超えた永遠の自己のことです。有限の時空の中の人間としての自己のことではありません。時間の中の自己は、この人間として何年何月何日に始まったのです。けれども、それは人間としての自己の始まりであって、自己そのものの始まりではありません。自己そのものには時間的な始めも無ければ終わりもない、と善導大師は教えておられます。

大峯顕『浄土の哲学-高僧和讃を読む』85ページ、本願寺出版社

ハイデッガー研究などで知られる著者ですが、同時に歌人としても有名で、親鸞聖人が論理的思考と概念的言語をもって解明しようとされた『教行信証』ではなく、詩的言語によって述べられる『和讃』を丁寧に読み解いてくださいます。

リズムをもった詩的言語が、わたしたちを概念語では届かない一段と深い事柄の次元に導いてくれる、というの著者の『和讃』に対する理解を通して、親鸞聖人がわたしたちの情動に響かせようとされた労作の数々が温かく解きほぐされていく様は、これまでのわたしたちの真宗理解がいかに浅いものであったかを知らしめるものです。真宗法話で用いられるような難解な概念語を用いず、わたしたちの日常にとても近い言葉で説明を試みられますので入門書としても最適ですし、一層の理解を深める書としてもおすすめです。

埼玉県浄土真宗本願寺派淨泉寺ホームページ http://www.j-yoshimi.net/